ふくろう通信

平成23年 4月 4日
米山 昌英

蛇口から水が出るよと 拝む母 (阪神淡路大震災後の句、作者不明)

なんともやるせなく胸が張り裂けるような巨大地震が起きたものである。
私たちが見聞した2011年3月11日(金)という日は、きっと生涯にわたって忘れられない日となるであろう。
風光明媚で美しく、世界に誇る日本のリヤス式海岸が、見るも無残に壊されて、28,000人以上の死者、行方不明者を出すという大惨事になってしまったのだ。そのうえ、原子力発電所の崩壊により放射能が飛散する最悪の事態が現在も続いているのだ。私たちは、大自然の力を、傲慢にも見くびり何でも思い通りになると思っていたのであろうか。

産経新聞の報道を引用すると東北大災害制御研究センターの今村教授によると仙台平野の地質調査の結果から、今回のような巨大地震の再来周期は、約1,000年であるという。前回から既に1,100年が経過しているのだから次の巨大地震が「いつ来てもおかしくない」と警鐘を鳴らしていたという。

古い歴史を紐解くと869年(貞観11年)2月に、陸奥の国府を襲ったマグネチュード9.0程度の大津波(貞観(じょうかん)津波という)によって、仙台平野奥深くまで津波が侵入して、多賀城下が水浸しになり城が壊れたという。仙台平野の海岸で高波の高さが9mを超え、7、8分間隔で繰り返し地震が襲来したと推定されている。

一般的な地震の周期は約40年、短くて26年といわれている。前回の宮城沖地震は1978年、その前が1936年で、地震研究者は、東北地方の太平洋を襲った貞観地震の再来を予言し、一定のアナウンスもして来たというのだ。

巨大津波で多くの市民が亡くなった仙台市若林区から5キロほど内陸寄りに小さな神社がある。貞観津波の直後に建てられ、津波被害を後世に伝えるために造られたもので「浪分(なみわけ)神社」と名づけられている。

(以上産経新聞の記事より)



1,100年前に、先人が後世の我々のために残した浪分神社に残された津波被害の教訓と智恵を伝承し、地震学者の警鐘を真摯に受け止めていたら貞観津波が押し寄せたこの地域で、再び同じ過ちを起こすことはなかった筈である。

一方で、4月13日の日経新聞によると、明治、昭和時代に集落を全滅させた大津波の教訓から「ここより下に家を建てるな」と警告の刻まれた石碑を建て、先人の教えをしっかり守り災禍を免れた地区として、姉吉地区が取り上げられていた。
「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津波」で始る石碑は、海岸から約 500㍍離れた山道の斜面に建てられている。そのお蔭で同地区の住民40人はすべて石碑より内陸よりに家を建てていたという。

(以上日経新聞より)



日本は周囲を海で囲まれた島国である。この美しい三陸の地区に、原子力発電所を建てるという愚かな選択がどうして進められたのであろうか。「絶対安全である。」と自らの力を過信し、営々と原発建設を進めてきた関係各所の責任は大きく重い。
我々はもっと大自然の力に対して畏敬の念を持ち、懐深く自然の猛威を受け入れるという「謙虚な共生の心」を持つことが出来なかったのだろうか。
この未曾有の大災害を受け、原子力発電所に関係する大勢の人達は、自らの命を投げ出す覚悟で、国民のために放射能漏れと戦っている。一方被災して、電気も水も食べ物もない大勢の人たちが、整然と秩序を守って、冷静にこの事態に対処している姿を見て、外国のメディアは一斉に驚嘆の声を上げ、盛んな賛辞を送ってくれている。日本人はまだまだ捨てたものではない。
かって、中世に日本を訪れた外国の宣教師たちが、武士や農民たちが強制されることもなく社会の決りや約束を守り、助け合う姿を見て、日本人は神のように暮らしていると驚嘆している、という誰かの文章を思い出した。
そういえば、フランスの駐日大使、ポールクローデル氏の珠玉の言葉を思い出した。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族を挙げるなら、それは日本人だ。」

(藤原正彦著、国家の品格)



わが国の長い歴史の中で培われてきた日本の良き習慣である大黒柱を立て、神棚を祀り、仏壇で先祖を拝むという、日本人の美意識をつくってきた国家の品格は、戦後65年を経て、見るも無残に変貌してしまった。
一番頑張って欲しい政治家は、我欲だけの陳腐な二世政治家の出現により、国家観を持たない政治屋の跋扈(ばっこ)を許す柔(やわ)な国家になってしまった。当然のごとく、自らの権利だけを主張し、自分だけがよければ良い、という低俗な日本人が幅を利かせ、日本人のアイデンティティーは紙屑のごとく捨て去られ、忘れ去られてしまったのだ。
資源も持たないわが国が、他国から買い入れた資源を湯水の如く使い捨て、飽食に明け暮れた生活は、この3・11を境にして、捨て去ってしまわなくてはいけない。
「もったいない。」という言葉が死語になって久しい。
いまこの言葉が外国で脚光を浴びている。ケニアの環境副大臣ワンサリ・マータイ女史が、この「もったいない。」を提唱しているのだ。もったいないは、自然の恵みをムダにすることを畏れる敬虔の念の発露で、単に物を粗末にすることとは意味が違う。つまりそのものの持つ機能や価値を発揮することなく捨ててしまうということは、自然の恵みの命を無駄にすることであり、その命を悔やむ心根が「もったいない」の精神である。
我々は、この大災難に直面して、もう一度過去の先人が遺してくれた叡智を噛みしめて、これからの日本の採るべき道を考え直す必要があるのではないか。けっして28,000人の被災者の嘆きを無駄にしてはならない。

合掌




米山 昌英