ふくろう通信

平成24年 5月 5日
米山 昌英

母の日の手のひらの味
           塩むすび (現代俳人 鷹羽狩行)


新緑移り、風きららかな季節がやってきた。木々の緑も、まだ陰(かげ)をつくるほどに深くなく、太陽の光を透(す)かすぐらいに柔らかい色をみせている。
日本の5月が新緑なら、ヨーロッパは花の5月というところであろうか。メーデー(花祭り)、メイポール(花飾りのついたポール)、メイイング(5月の花を摘みに行くこと)など、花と関係ある言葉を数多く見つけることが出来る。
5月13日(日)は母の日である。
上掲の俳句は、現代俳人、鷹羽(たかは)狩行(しゅぎょう)という方の48歳の時の作品であるという。48歳になって作者が感じる母の手のひらの温もりが、母に対する報恩のこころと共に我が胸に響く。
私は毎年、母の日には、一輪の真っ白なカーネーションの花を、仏壇に飾り「観音経」一巻を特別に唱えて、心から母の冥福(めいふく)を祈る。
飾ったばかりの純白の花びらに水滴(すいてき)が映(は)えて、いっそう清楚(せいそ)な輝きを増し、花の匂いが母の思い出に重なって、切なく胸に迫って来る。
「母の日」は、元気な母のためにばかりあるのではない。亡き母の在りし日を偲び、報恩の心を思う尊い日にしなくてはならない。
この頃、どういうわけか、無性に母のことが思われてならない。父に比べて、母恋しさは募るばかりである。これは私だけの想いであろうか。
平成4年2月、母の亡くなる前々日の私の日記の一部を抜粋して、亡き母を偲んでみたい。

今日は母の意識が随分しっかりしていた。「おばあちゃん」と呼ぶと「あ・あ!昌(まさ)ちゃん!」と、母は珍しく夕食前に眼をパッチリ開けて、とても嬉(うれ)しそうな顔をした。
今日は、食も進んでとても手が掛からなかった。「これなら妻でなくても、私にも出来るな」と内心思った。
やがて食事も終えたので、家に帰る準備をしていると、母の眼が私を追っているのに気がついた。私は暖かくした自分の両手で、母の顔をゆっくり撫(な)でてやった。その時、私をじっと見詰めていた母の眼からひとしずくの涙がスーと流れて落ちた。
私は母の心中を思って、不覚にも涙で母の顔が見えなくなった。父を送って2年、ようやく重い腰をあげて上京した母の胸の内を思うと、取り返しのつかないことを母に強要したようで、心からすまなく思った。
(まばた)きもせずじっと私の手を握る母に、涙を見せてはいけないと、眼をそらした。歩くことも出来なくなった母に、私の出来ることは、母の涙を拭いてあげること位になってしまった。・・・・「以下省略」


今年も玄関に、山本玄峰老大師の墨蹟「母」の一字関を掛けた。三島の龍沢(りゅうたく)寺から頂いた、老大師最晩年の色紙である。
母の字を置(お)き字に、「年をとるほどありがたくなる」と賛した、私のお気に入りの墨蹟である。
年を取るほどありがたくなる、というご老師の深いご境涯までは、うかがい知ることは出来ないが、玄峰老大師の法を継がれた宗忠老師がある日、私の家に来て、玄関でこの墨蹟を見たとき、
「玄峰老師の書かれたこの母とは、生みの親でなく、育ての親の岡本さんの母のことだ。」と、つぶやくのを聞いたことがあった。
生まれて間もなく籠(かご)に入れられたまま捨てられ、酒をかけたら生き返ったという数奇な運命に生まれたご老師を、我が子として慈しみ育ててくれた養母(はは)に、無限の感謝と限りない追慕の念を思わずにはいられなかったのであろう。
ある年の夏の暑い日に、静岡県富士の円妙寺の和尚から「父母(ぶも)恩重(おんじゅう)経」という本をお送り頂いた。円妙寺の先住和尚は私の中学時代の恩師である。3年間私を手元から離そうとしなかった。お蔭で私はずっと同じ担任だった。
「父母恩重経」はその経題からして、父と母の恩の深さを説き、その報恩を勧める内容のものだが、この中に次のような一節がある。
「計(はか)るに、人々母の乳を飲むこと、一百八十斛(こく)となす。父母の恩重きこと天の極まりなきが如し。」
赤ん坊が飲む母親の乳の量が一百八十斛になる、というのである。斛(こく)は、石(こく)と同じで、一斗の10倍、約180㍑の10倍であるが、これだけたくさんの母乳量を飲むだけではなく、その都度、母の細やかな温もりを受けながら生育するのである。誠に母の恩に勝るものはない。母の胎内に十月(とつき)の営みを受けることと思い合わせて、やはり母に対する格別の思いが湧(わ)いて来るのも当然である、と思わずにはいられない。
どうぞ皆さんも、この母の日を機会に、是非一度母の報恩に思いを深くして頂きたいのです。

 

合掌




米山 昌英