ふくろう通信

平成25年5月10日
米山 昌英

春しぐれ
   死というもののあるかぎり (三島龍沢寺 中川宋淵老大師)


「ハイアット リージェンシー 東京」の敏腕社長、荒屋正年さんが亡くなった。
この時期は、新しい出会いと別れが重なって、悲喜交々こもごもの人事が行われるが、悲しい別離となると重みが違う。
わずかの間に二人の大切な友人を亡くしてしまった。突然の訃報に呆然とし、なすすべもない。65歳の早すぎる死去であった。出来ればもう少し生きて欲しかった。そして荒屋社長が精魂込めて改革してきた、最後の集大成を見届けるまで、生かして欲しかった。本人もさぞ無念で、口惜くちおしいことだと思う。

私が荒屋社長に初めてお目にかかったのは、小田急電鉄の本社で、清水専務に紹介されたのが最初である。実に35年以上も前のことである。
荒屋さんの弟さんが、お別れの挨拶で「兄は、型破りの人柄で、これで良くサラリーマンが勤まるものだ。」と話していたが、外見はともかく内面は、実に細やかな神経の持ち主で、仕事にも人間関係にも、行き届いた気配りを心掛け、袖すれ合う人々をことごとく魅了させてしまう人柄であった。

「米山さん!人との付き合いは、たえずメンテナンスをしないとダメになってしまうよ。」というのが氏の口癖であった。青山葬祭場のお別れ会は、大勢の方々の悲しみに埋められていた。
「人とタバコは煙になって初めて値打ちが判る。」というが、氏の人柄と豊富な人脈を垣間見ることが出来て得心した。
難しい相談事も、心から受け止めてくれ、いつも親身になって答えを見つけて呉れた。私よりずっと後輩でありながら、人生経験も深く、懐の深い得難い人だった。平成23年3月の大震災のときは、息子の結婚式、披露宴を何とか無事に挙行して、長い間の報恩底にこたえることが出来た。

もう一人の友人は、小田急百貨店の元専務取締役 平野富国さんである。
氏とは、私が独立する前から異業種交流会のはしりである「東京五月会」で、50年を超えるお付き合いを頂いた大先輩である。
群発地震が頻繁に発生していた昭和63年8月の初旬、私は平野専務から食事に誘われた。その年の7月30日に最愛の娘を海の事故で無くした私は、生きることも事業に係ることも、何もかも虚無的になり絶望の中で苦しんでいた。
新宿小田急百貨店の10年振りのリニューアル計画が進んでいた時である。その中で、我が社の出店計画も進んでいた。仕事を続ける気力もすっかりせてしまった私は、不覚にも出店計画に断りを入れた。
「娘さんのことは、悲しいことで、あなたの気持ちは判らないわけではないが、事業にはチャンスというものがある。一時の迷いや悲しみの感情で、大事を忘れてはいけない。働いて呉れる社員のことも考えて、迷ってはいけない。是非やりなさい。」「このチャンスを10年間も待ち続けて来たではありませんか!」と、懇々と説得をして頂いた。
何もかもが有難く、涙なくしては聞いていられない、真心のこもった暖かいお言葉であった。

「昨日のことは今日の夢、明日の事実は只今の夢、そして今日の今のことはまた明日の夢」
(龍澤寺:中川宋淵老大師著 法光寿より)

無上甚深微妙むじょうじんじんみみょうえにしに因って結ばれた尊い御縁のお二人であった。
荒屋正年さん、平野富国さん、どうぞ安らかにお眠りください。
心からご冥福をお祈り申し上げます。

合掌




米山 昌英