ふくろう通信

平成26年8月20日
米山 昌英

涼しさのそらに散るなり
             手も足も (三島龍澤寺 中川宋淵老大師)


 NHKのドキュメンタリー番組「山本五十六の真実・真珠湾への道」という番組が放映された。
 大分の杵築で発見された堀悌吉氏宛ての28通の手紙を紹介しながら山本五十六の人柄に迫ろうという番組である。
 戦後69年が経った。米英と戦争することに、絶対反対を唱えながら自らが、戦争の矢面に立って米英と戦争することになった男の悲劇の番組でもある。
 明治17年(1884)4月1日旧長岡藩士で儒学者である高野貞吉の六男として生まれた。父が56歳の時で五十六と名付けられたという。長岡中学を卒業し海軍兵学校に2番で入学した。大正8年(1916)長岡藩家老、山本帯刀家を継ぎ以後山本姓となる。
 山本五十六は、卒業の時は11番と振るわなかったが、終生の盟友となる同期生の堀悌吉を知る。海軍兵学校を首席で卒業し、兵学校創立以来の秀才といわれ、後々の海軍を背負って立つ逸材と言われた男である。二人は順調に出世して海軍の要職を歴任して行く。しかし昭和5年(1930)に締結されたロンドン海軍軍縮条約が堀の運命を変える事になった。
 日本は大型巡洋艦の保有率7割を主張するが、果たせず約6割で締結させられた。国内で大きな非難が巻き起こり、海軍内部でこの条約を擁護する条約派と反対する艦艇派が対立し、海軍から将来を期待された逸材だったにも拘らず、堀は予備役へ追いやられて海軍を去った。失望した山本は、自身も海軍を辞することを考えたが、堀の強い説得で思い止まった。
 この時の決断が、山本の運命を大きく変えていく事になるのであるが、立場は変わっても二人の友情は最後まで途切れることはなかった。
 番組で紹介された数々の書簡は、山本が兵学校時代「吾、一人の友を得たり。」と実兄、高野季八に書き送った通り、最後まで同じ心で結ばれ、その友情は変わることなく強固になって行くのである。
 愈々開戦になる年の10月11日付の堀宛ての手紙は、読む者の心を揺さぶらずにはおかない。
 「 大勢たいせいは既に最悪の場合に陥りたりと認む。今更、誰が善いの悪いのと言った所で始まらぬ話なり。個人としての意見と正確に反対の決意を固め、その方向に一途邁進のほかなき現在の立場は、誠に変なもの也。これも命というものか。」
 この短い手紙は、自らの運命を知り、運命に殉じる自らの胸中を赤裸々に語り尽くして余りある。堀は、山本の絶対絶命の境地を おもんばかり、同一眼で励ましの言葉を贈るのである。
 山本五十六の対米感は、どのようにして つちかわれたものであろうか。
 大正8年4月アメリカ合衆国の駐在武官として、ハーバード大学に入学し、ひたすらアメリカ国内の石油施設や飛行機の生産現場を視察し、石油の産出量は日本の150倍、圧倒的な航空機の生産量、自動車の普及等をみて、国力の差を全身をもって知る。徹底してアメリカを学び、調べ尽くしたというところであろうか。この間、大学へ出席したのは4年間でたった2日であったという。
 日独伊の三国同盟にも反対し、米国と事を構える愚を説き尽くして、開戦には最後まで絶対反対であった。
「この身滅ぼすべし、このこころざし奪うべからず。」とわが身の危険を省みず、開戦に反対する姿勢は、当時の世情の中では、相当の覚悟と勇気がいる所である。
 おびただしい堀悌吉との間の厳秘と判の押された書簡は、山本が米英との戦争に反対しながらも組織の人間として苦悩し、全身全霊で開戦を勝利に導く作戦を立てて行く様が映し出されていく。
 墨痕鮮やかで、骨太の すみで書かれた力強い数々の書簡を見ると、何とも言えない人間の器の大きさと品格が見えて来る。惜しい人材を失ったものである。
 「国 だいなりといえども、戦を好べば必ず滅ぶ。天下安きといえども、戦を忘るは必ずあやうし。」何かにつけて強硬姿勢の言辞の目立つ今日の日本の現状は、昔も今も少しも変わっていない。
 戦後70年を迎えようとしている現在、戦争の悲惨な現状を直視し、二度と戦争をしないという「不戦の誓い」を、再確認しなくてはいけない。特に国を動かす為政者はもって瞑すべしである。

合掌




米山 昌英