ふくろう通信

平成27年5月5日
米山 昌英

きさらぎやこの老いにして
            老を見ず (龍沢寺 中川 宋淵老大師)


 またひとり大切な友人との別れがあった。
株式会社なだ万の前社長津田暁夫氏である。訃報は丁度、ハイアットリージェンシー東京の荒屋社長の三回忌が開かれているときであった。このところ大事な友達の別れが続き、年を取るという事は、「こういうことだ。」と自らを慰めているのである。

 津田さんとの出会いは、私が東京都食品健康保険組合の理事を務めていたときである。いまから25年も前のことである。津田さんとは、妙にうまが合い直ぐに親しくなった。津田さんの人柄のお蔭である。当時、津田さんは専務取締役のポストにいた。
 なだ万は日本料理の有名店として、特に外国人に人気がある。ホテルニューオオタニの「なだ万本店 山茶花荘」がそれである。
 あるとき、小田急電鉄の今は亡き清水専務(当時)に呼ばれた。小田急百貨店のマンハッタンヒルズ街の最上階に、「出来れば伊勢丹の吉兆に匹敵する日本料理店が欲しい。」ということであった。
 「私が知っているのは、なだ万と美濃吉さん位ですが。」というと清水専務は、その時は、余り興味を示さなかった。
 次の日、清水さんから直接電話を頂き、「なだ万を紹介して欲しい。」ということになった。なんでも帰社して、当時の社長の利光達三氏に話した所、「山茶花荘のなだ万だよ。とてもいい話ではないか」ということになった。
 丁度、箱根の湯本で健保組合の組合会が開かれたので、早速津田専務にこの話をしたが、正直、津田さんは乗り気ではなかった。当時、なだ万は、営業の主体がホテルであった。街の商売を知らない「なだ万」としては、会社のブランド、出店の優先順位を考えると、社内的には難しいと言う意見であった。しかし私は、諦めなかった。「日本一の乗降客が集まる新宿の魅力、マンハッタン街の並外れた集客力は、間違いなく120%の成功が保証されている、そしてこの場所の成功が、なだ万のブランド力を更に高め、むしろ大勢の顧客に認知して頂く最高の舞台になる。」と説得した。

 出店は大成功であった。小田急百貨店も最大限の優遇策を以てこれに応えた。なんといっても改装計画の最大の目玉が決まった事で、小田急百貨店にとってもその悦びは特別のものになった。
 開店して間もない、ある月には一ヶ月で一億円の売上を達成するという快挙で、なだ万の実力を天下に示した。その後、社長に昇格した津田さんは、更に新しい「なだ万厨房」、「スーパーダイニングジパング」というコンセプトを成功させ、次々とターミナル立地、百貨店に出店し続けるのである。

 このことは、私と津田さんの関係をより親しくして、お互いが信頼という絆に、結ばれて最後まで続くのである。特に小田急百貨店も歴代の社長が津田さんの人柄をことのほか信頼し、小田急テナント会の会長職を依頼し、名実共に小田急百貨店の顔になったのである。
 特に当時、社長に就任した現小田急電鉄の専務、小川三木夫氏は、津田氏の人柄に格別の敬意と好意を表し、ゴルフに誘い、何くれと無く面倒を掛けて呉れたのである。電鉄の専務に昇格して百貨店を離れてからもいつも津田さんのことを心配し、大切な友人として心を掛けてくれたのである。
 ある年の秋、ゴルフに誘われた津田さんが、体調が悪くて同伴できなかった時の小川専務の落胆と心配は、二人の絆の深さを充分に感じるものであった。それ以降、お目にかかるごとに「米山さん!津田さんの具合はどうですか。」というのが口癖であった。

 こころ残りが一つあった。津田さんが食品健保の理事長になるとき、渋る彼を説得して、なんとか就任させたのも私を初め理事達であった。その組合の理事を退任する時(内規では72歳で退任)、津田さんから再三再四、理事に残って欲しいという要請を断わって退任してしまった事である。当時、津田さんは体調が悪く理事長を続ける事に随分難儀していた頃である。
「何とか残ってほしい。」という津田さんの要請を私は、内規を立てに辞退してしまった。そのことがずっと負い目になっていたのである。

 訃報を聞く二日前の明け方近くに夢を見た。
 津田さんと一緒にどこかの場所に来ているのだが、津田さんが行こうとしている方向に、私だけ立ち止まって彼を見ている夢であった。あの夢は津田さんが間違いなく私に旅立を告げに来た夢であったのだ。
 私よりも2歳も若い津田さんが先を急いで旅立って行った天国とは、そんなに魅力的なところであろうか。それとも、酸素ボンベを常に離せなかった苦しい日々の生活から開放されて心からの平安を得たのであろうか。
只々寂しい。心よりご冥福を祈るのみである。

合掌




米山 昌英