ふくろう通信

平成27年7月15日
米山 昌英

仏法僧鳴くべき月の
           あかるさよ (三島龍澤寺 中川 宋淵老大師)


 永い間、心に秘めていたサイパン島の慰霊祭に参加する機会を頂いた。
偶然にも終戦後70年という記念すべき年にである。いや偶然ではなく必然であると思うべきかもしれない。
 三島にある龍沢りゅうたく寺のいまは亡き、私の参禅の師匠、鈴木宗忠老大師が敗残兵として、3年間、山の中を逃げ回って、奇跡的に生き残った玉砕の島「サイパン島」である。一度お参りしたいとずっと思っていた島である。
 私は、サイパン島に出掛ける前に、師匠のありがたくも忘れがたい渾身こんしん一字関いちじかん墨蹟ぼくせき「愚」を床の間に掛けた。禅僧鈴木宗忠老大師は、私にとって生涯の忘れ難い大切な「人生の師」の一人である。
 龍沢寺は、臨済宗妙心寺派の坐禅の専門僧堂である。専門僧堂とは雲水(お坊さん)が修行する専門寺のことである。
 大接心も無事に終わって、老師に帰京のご挨拶のため隠寮いんりょうに伺うと、記念に何か好きな字を書くという。思うところ有って私は、「守愚しゅぐ=愚を守る」という字を書いて欲しいといった。
 「お前さん、守愚は駄目だ。ここは愚でなくちゃー。」といって、キラッと光る鋭い眼で私を見た。私は一瞬戸惑った。老師が何を言わんとしているのか、未熟な私にはとっさに理解できなかった。
 「守愚」では、愚にとらわれている自分があって、愚そのものに成り切っていない、ということに気がついて、初めて老師の真摯しんしな教えが心に響いて得心した。以後、愚の一字関は、私にとって人生そのものになった。
 相手の本心をスパッと射抜くような鋭い一拶、老師の一挙一動が私にとっては新鮮な驚きであった。何もかもが私の心の琴線きんせんに触れた。

 老師が東大の陵禅会りょうぜんかいの接心に来られたある年の夏だった。私が運転して町屋のある病院に、老師の戦友のお見舞いに同行する機会があった。
 サイパン島で生死を共にした生き残りで、たった一人残った最後の戦友であった。死期は確実にもうすぐそこにあった。
 「サイパンの生き残りは、もうお前さんとわしだけになった。生きて帰っただけで儲けもんじゃった。有難いと思って死ななきゃ先に逝った戦友に申し訳ないぞ。」
 「息子さんの工場のことも無事に片付いた。何も思い残すこともない。もう安心じゃ。後はわしの出番じゃよ。」
といって延命十句観音経かんのんきょうを口の中で唱え始めた。戦友も一緒に口ずさんだ。私もつられて読経した。これはあの世とこの世を結ぶ荘厳な観音経であり、生死しょうじを超えた人間の尊厳を真直まじかにみる初めての体験であった。
旦夕たんせき迫った戦友のせて蒼白そうはくな顔に、みるみる赤みが差した。一滴ひとしずくの涙がス―と流れた。それは己の人生の幕切れに、安らかな引導いんどうを与えてくれた老師への限りない感謝の涙に思えた。
 握っていた戦友の手を静かに布団ふとんの中に仕舞われた老師は、無言のまま私をうながしてベットを離れた。帰りの車中で「多分明日までの命じゃろう。」と独り言を言った。
 あのとろける様な相手を思う深いいたわりの心は、いったい何処どこつちかわれたものだろうか。龍沢寺へ掛塔かとう以来、深く凄まじい修行に負うところは当然ながら、師の小さい頃の家庭環境とサイパン島の戦争体験が、大きく影響していることは間違いない。

 敗北とは、死を選ぶこと。祖国に忠誠を誓い、投降を拒みながら最北の岬バンザイ・クリフから身を投じた人々、その数10,000人という。島の各地に今も残る兵器の残骸、70年の風雨に錆び行く鉄は、過去の愚行の生き証人である。
 中部太平洋戦没者の碑の前、日本軍の司令部があったラスト・コマンド・ポストの前で、私は読経しながら老大師の面影を身近に感じてハッとした。
 老大師は今も私の心の中にあるが、相変わらず無眼子むがんすのまま師の半徳をけがしている自分に、今更ながらほぞをむ思いである。
 サイパン島は、鎮魂の島である。この島に立って、痛切に感じることは、日本はなんでこんな無謀な戦争をしたのだろうか、という思いだけである。

合掌




米山 昌英