ふくろう通信

平成29年11月03日
米山 昌英

花の世の花のようなる
        人ばかり (三島・龍沢寺 中川 宋淵老大師)


 10月11日(水)に白隠禅師の250年遠諱おんきが禅師所縁ゆかりの三島の龍沢寺で開かれた。世界的にも偉大な白隠禅師の遠忌に参加できるという機会は、まことに幸運といわざるを得ない。
 200年遠忌の時は、玄峰老大師が遷化して、丁度七回忌に当る年で、中川宋淵老大師が61歳とご健在で、心に残る遠諱の導師として堂々たるものであったという。その宋淵老大師も今はない。宋淵老大師が宗忠老大師に法を譲った昭和48年に、私は龍沢寺にご縁が出来た記念すべき年であった。その後を継いだ球童老大師もアッという間に遷化した。50年という期間は決して短いものではなかったのである。幸運にも私は、今回の遠諱に立ち会うことが出来た。実にまれなことである。
 白隠禅師は、私が説明するまでもなく禅界では誰も知らない人はいない程、この世界では有名な禅僧である。白隠禅師の法類を脈々と伝えているのが龍沢寺の会下の玄峰老大師であり中川宋淵、鈴木宗忠、中川球童老大師達である。
 以前「ふくろう通信」で玄峰老大師のことを少し書いたが、ここで簡単に紹介しておきます。
 玄峰老大師は慶応2年1月28日、和歌山県東牟婁郡に生まれた。幼いころ籠に入れられ、路傍に捨てられていた。子供の無かった岡本家に拾われて育てられたが、19歳のころに眼病を発して、まさに全盲に近い状態になってしまった。
 25歳の時、四国遍路を発願し、裸足行道はだしまいり実に七回に及んだが、ついに33番札所雪蹊寺門前で行き倒れ、住職太玄和尚の慈手に助けられ、36歳でついに出家する。宿縁深しというべき因縁の成就である。
 師弟の間で次のような問答があったという。
「お坊さんになりとうございます。」
「お前はそうなる人間だろう。」
「しかしご覧の通り、私はめくら同然、字もらず、お経も読めません。こんな人間でもお坊さんになれますでしょうか。」
「普通のお坊さんにはなれないが、覚悟次第ではほんとうの坊主にならなれるよ。」

 白隠禅師は、昭和36年6月3日龍沢寺にて遷化される。遺書に、
「龍沢寺、松蔭寺の住職たるものは、東嶺(龍沢寺開創)、遂翁(松蔭寺2代住職)の侍者たるべし。世の常の和尚ぶりとなることなかれ。正法興るとき国栄え、正法廃るとき国滅ぶ。よろしく正法を守り仏法を興すべし。自分の葬儀は絶対に行わざること。」とあり、秋霜烈日の概あり。(以上は山本玄峰老大師の無門関提唱寿譜の中より)
 玄峰老大師は、龍沢寺で宗舜和尚はじめ沢山の禅僧を育てて世に出してきた。中でも玄峰老師の後を継がれた中川宋淵老師、宋淵老師の後を継がれた宗忠老師、宗忠老師の後の球童老師、球童老師の後を継がれた榮山老師も、みな玄峰老師の鉄槌を受けた立派な弟子たちである。250年遠忌の導師を務める榮山老大師のお姿、立ち振る舞いを見ながら、龍沢寺で行われた幾人かの遠諱に立ち会った時の宗忠老大師のお姿にだぶって涙が出て仕方がなかった。
 昭和48年に銀座のうなぎ屋「竹葉亭」の社長、別府信雄さんの紹介で宋淵老大師の膝下しっかに、ご縁を頂いてから45年、実に有難いご縁を歴代のご老師様から頂いたものである。それは一生尽きることのない幸せなご縁であり私の人生の宝物である。
 その別府さんも今は亡い。無常の世界である。心よりご冥福をお祈り申し上げ、只々ただただ報恩感謝あるのみである。


合掌




米山 昌英