ふくろう通信

平成30年06月20日
米山 昌英

くちなしの花より暁けて
        接心会 (三島・龍沢寺 中川 宋淵老大師)


 6月は結婚シーズンであるという。ジュンブライトといって、この季節に結婚するカップルは、幸せになれるといわれている。
 私の家の裏にお住いの東野家のご長男が、6月2日に華燭の宴を挙げた。平素から親しく近所付き合いしているお家のご長男でもあり、少しばかりのお祝いをさせて頂いた。ある日曜日の朝、いつものように玄関に出ると立派な青年が真っ赤なバラの花を二本胸のところに持って頭を下げた。
「おはようございます。泰希です。この度はお祝いを有難うございました。」というような挨拶だった。私は、成長して立派になった泰希君が、しばらくの間イメージ出来なかった。「良い青年になったなー。」というのが正直な気持ちで、とても羨ましく思った。
 子供の成育には、母親の心根がもっとも大切である、というのが私の持論である。東野家の子供達の素直な成長を見つめながら、東野家の母親のすばらしさにいつも感服していた。泰希君は、きっと母親の様な素晴らしい伴侶を選ばれたのではないかと確信した。
 泰希君のご両親は、とてもお若く、ご主人は現在、父親の経営している大阪の会社を継いで、社長業を立派に務めて居られる。奥様はとてもやさしい慈母心を持った方で、いつお目に掛かっても、心温かい才媛である。
 私のことで恐縮であるが、私が密かに結婚を決めたある年、東京に出て来た妻を私たちの母親代わりを務めていた長姉に引き合わせした。
初めて会った姉が「まさちゃん!あの子少し派手じゃない!大丈夫?」というのが、最初の印象であった。
 スタイルが良く顔立ちは優しいが、センスが良く理知的で、何を着ても着映えがする姿を見て、長姉は私の安月給では、とても養いきれないと心配してくれたのである。しかし私には確信があった。なによりも私は、妻の母親が大好きになっていた。物静かで、慎み深く決して人の悪口を言うような人ではなかった。慈母のような優しい母親で、会う人を包み込むような謙虚で温厚な人柄であった。
 「昌英さん!和子をよろしくお願いします。うちのことは、何もさせなかったので、ほんとうに申しわけありません。よろしくお願いいたします。」
 初対面の時の母の強烈な印象で、私は「この母親が育てた娘なら絶対に大丈夫だ。」と確信した。また、ある時、妻が化粧室に行ったとき、そっと手帳を覗いてみた。自分の使ったお金をきちっと記録している真面目さに心から感心したものである。
遠い昔のことであるが、56年経った今も昔の決断が間違っていなかったことを誇りに思っているこの頃である。
 東野家が裏の土地を買ったのは、私の義兄達からである。私の3歳上の姉が嫁いだ高瀬家である。
 今から45年前、私たちが高田馬場にカンタベリ・カフェを開店した頃、姉から土地を買ってほしいという話を頂いた。義弟の名義にしてある自分たちの家の前の土地を義弟が売ることになった。知らない人が家の前に来るのも困るので、是非買って欲しいという事であった。私は喜んで承諾した。
 その後10年間、高瀬のお祖母ちゃんが丹精込めた庭を壊すことなく好きな草花を育てて、余生を楽しんで頂くことになった。その後、義兄達がおうちを後方に曳いて、区画を整理する事になった機会に、私たちも家を建てた。
 姉弟で近くに住むことが出来て、晩年をとても楽しみにしていたある日、突然「仙台に引っ越すことになった。」と姉から聞かされてびっくりした。いまもあの時の驚きは忘れられない。
 高瀬家の姉たちとは、遠く離れてしまったが、隣人を思いやり温かい心を持った東野家の皆さんが、そばに来て下さったことは誠に幸運であった。
 そういえば、三島の龍澤寺の宗忠老大師が、生前ある時、ぽつりと漏らした一言が、その後ずっと私の耳元から離れない。
 「人間の惻隠そくいんの情も、他人を思いやる心も、隣人を思いやる心も、自己犠牲の精神も、何もかも捨ててしまった日本人が、祖国を愛し、隣人を愛する人間として育つには、歩んできた50年(当時)の歳月と同じ年月が必要になるな―。」と嘆かれていたのを思い出す。
 宗忠老大師が心配されたような隣人でない、良い隣人に恵まれた我が家は、幸せなご縁を頂いたことに感謝しなければいけない。
誠にありがたいことである。


合掌




米山 昌英