ふくろう通信

平成30年03月10日
米山 昌英

きさらぎの雲又雲の
        光かな (三島・龍沢寺 中川 宋淵老大師)


2月17日に母の27回忌を無事に済ませることが出来た。
亡くなった当時は27回忌まで、私の手で、ご供養が出来るとは思っていなかった。母はいつも私の心の中で生きている。
母のことを知る人たちも、今はほとんど鬼籍に入り、遠い記憶の片隅に残る程度になってしまったが、母のことが歳と共に、無性に思い出される。
先祖供養を引き受けた子供の一人として、母のことを書き残しておこうと思いついたのもこの事と、決して無縁ではない。

 母の死因は肺炎による心不全であった。
 朝夕の光に、かすかに春を感じる頃となった2月17日の夕食が、母と私達の最後の別れになった。
 この夜の母は、家内の手料理を美味しく食べながら、孫の博史、康史と曽孫たち大勢に囲まれて、抜けるように明るく、そして楽しそうに、笑顔を見せながら実によく喋っていた。
 「心配した熱も下がり食欲も出てきたので、おばあちゃん!今度も元気になれるね。」というと「うん!でも今度はダメだよ。」
「あんたちには、世話になったよ──。」となにか悟りきったように清々しい言葉を残して、それから7時間後に母は旅発ってしまった。

 2月4日(火)の私の日記には、母のことが次のように書かれていた。
今日は母の意識が随分はっきりしていた。
 「おばあちゃん!」と呼ぶと「あ・あ、まさちゃん。」と母には珍しく、夕食前に眼をぱっちりとあけて、とてもうれしそうな顔をした。
やがて食事も終えたので、家に帰る準備をしていると、母の眼が私を追っているのに気がついた。
私は、暖かい私の両手で、母の顔をゆっくりと撫でてやった。そのとき、私をじっとみつめていた母の瞳から、ひとしずくの涙がス―と、流れ落ちた。
私は、母の胸中を思って、不覚にも涙で、母の顔が見えなくなった。
父を送って2年、ようやく重い腰をあげて、故郷富士から上京した、母の辛かった胸の中を思うと、取返しのつかないことをした様で心から済まなく思った。
母が捨てた故郷の地は、母の人生そのものだった、と思う。まばたきもせず、じっと私の手を握る母に涙を見せまいと、私は眼をそらした。老いて歩くことも出来なくなった母に、私のできることは、母の涙を拭いてあげること位になってしまった。
 母の葬儀がすむと、母を偲んで、龍沢寺の先師、玄峰老大師の「母」の一字関の墨跡を、玄関に掛けた。(上掲の墨蹟)

● この母という字を眺めていると、幼い頃の母の「べったら焼き」が無性に思い出される。
 アンコを小麦粉で包んで、フライパンの上で焼いた、母が得意とした素朴な饅頭は、学校帰りの空腹には、何よりのおやつだった。
それは私の小学校時代まで絶えることなく、ずっと続いた。この「べったら焼き」を思い出すたびに、母の温もりを感じて、目頭が熱くなる。

● この母という字を眺めていると、戦後、塩が不足していた頃、近くの海から塩水を担いできては、寸暇をおしんで塩を作っていた母の骨太で、たくましい男まさりの姿が、浮かんでくる。
 昼は田の草を取りながら、夜は遅くまで、「はた織り機」で子供の為に反物を織る。母はいったい何時、寝ているのだろうかと子供心に思った。

● この母という字を眺めていると、信心深くて、仏様を大切にした母のありし日が思い出される。
 妹を産んだ後、母は、大病をして、医者に見放された。医者の手に負えない病気ならと、近所のお念仏講の人達が、本家の弁天様に、昼夜を問わずに回復祈願をしてくれた。そのお陰で母は奇跡的に助かった。
 爾来、母の信仰は年と共に深く、そして強固になって行った。
 ずっと後に、弁天様の改築工事のとき、私はささやかな寄付をした。母のあの時のうれしそうで、満足な顔が今も忘れられない。

● この母という字を眺めていると、今も大切に保管している、黄色く変色した古びた三通の母の手紙を思い出す。
「子供を6人も育てながら、最後の子供(私のこと)まで、手放さなければなない、母の悲しい断ちがたい別離の心を書いた便り。」
「私が、結婚したばかりのころ、交通事故で入院したことを知らされ、田圃の中で腰が抜けて、歩けなくなってしまった母の驚きと、心痛を書き送ってきた便り。」
「世話になった会社を離れて、いよいよ独立をする事になった私の将来を思うと、不安で、不安で夜も眠られないと書いてきた便り。」
誠に母の愛は、有り難くその心根は、実に深く、今も読み返すたびに、たどたどしい拙い文字を通して、母の愛の深さに胸が痛みます。


 いま、断ちがたき故郷の土から宇津木台の新墓地に帰った母は、風と光と人情に触れ、本当の安心を得たところである。




合掌




米山 昌英